東日本大震災から6年

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東日本大震災が起きた頃は、まだ会社を倒産させる前でした。


大口の取引先との契約を一方的に切られ、経営が傾いていました。


一方プライベートでは子供が生まれたばかりで、しあわせで一杯でした。


人生で最大の危機と、人生で最大の喜びを同時に味わっていました。





そしてあの日はやってきました。


その日は、社屋にて数人が仕事をしていました。


「ん? 地震?」

「あれ大きいぞ?」

「やばいやばい! 外に出よう!」

 

外に出ても大きな揺れを感じます。

 

段々大きくなり、停車中の社用車が上下に飛び跳ね、建物が揺れているのがわかります。

 

これは尋常じゃないと思い、子供がいるマンションへ全力疾走しました。

 

1Fのベランダから覗くと、6ヶ月の赤ちゃんに覆いかぶさる妻の姿がありました。

 

マンションの周囲の安全を確認して外に出て、会社まで一緒に行きました。

 

その日は仕事を早仕舞いにして、従業員は家族の元に帰ってもらいました。

 



僕はその後、帰宅難民になった元嫁を迎えに、車で都内へ向かいました。

 

道行く車の走りが、普段と違う事に気がつきました。

 

狭い道でも、スピードを出している車が多く、皆殺気立っているようです。

 

一刻も早く、大事な人の元へ急いでいるのだなと思いました。

 

僕は車を運転する従業員に対して、その状態を説明して、慎重に運転するように、とメールしました。

 

都内へ向かう車は大渋滞に巻き込まれ、身動きがとれない状態が続きました。

 

暫く走っていると、突然、後ろの車に追突されてしまいました。大した衝撃はなかったのですが、外に出てみるとバンパーがへこんでいます。警察に電話しましたが、この大混乱の中、電話は通じませんでした。

 

普段1時間で往復できる距離を6時間ぐらいかかって、やっとの思いで帰宅しました。

 




そして翌日、出先で友人から「福島原発が爆発した」とメールがありました。

 

直ぐに妻に電話をして、「窓を全部閉めて、換気扇を止めて、絶対に外に出ないように」と電話で伝えました。

 

会社に直ぐに戻りインターネットで情報を集めましたが、テレビで言っていることと比べ、かなりの温度差を感じます。

 

念には念を入れて最大限できる対策を練りました。

 

いつでも放射能の影響がない所に逃げられるように、数日分の食料とか衣類を準備をしました。

 

放射能についてもインターネットで調べ、まず子供に影響がでるということも分かりました。

 

そして僕が住んでいる埼玉県にも、確実に放射能が降り注いでいることを知りました。

 

家に戻り、着ていた服を全部捨てて、家中の窓や換気口などに目張りをしました。

 



その後大きな余震が数日間続く中、インターネットで情報を集め続けていました。

 

3月14日には福島原発3号機も大爆発し、予断を許しません。

 

防護マスクや、ガイガーカウンター(放射能を計測する機械)を購入し、妻と子供を逃がす準備をしていました。

 

3月15日に、いよいよ関西方面に行く決意をして、出発の準備をしていました。

 

妻と子供を預ける場所が見つかったら、僕は数日で戻るつもりでした。

 

続々と西方面に非難する人がいるので、渋滞を避ける為に深夜に出発する予定でした。

 

しかし、その日の夜22時ごろ静岡県で震度6強の地震が発生。


非難を断念することになります。

 




その後も情報収集を続けました。


放射能について勉強し、福島原発の状況を観察し続けました。

 

高性能のガイガーカウンターも購入し、自分の生活圏にどれだけ放射能があるのか調べました。

 

会社や自宅の北側の雨どいの排水口から、物凄い数値の放射能が検出されました。

 

そのうち、「子供は水道水を飲まない様に」との報道があり、あっという間に近所のコンビニやスーパーから飲料水がなくなりました。

 

自動販売機にはまだあるかもしれないと思い、近所を走り回って買い求めました。

 

それと東北3件の津波による被害も、だんだんと明らかになってきました。

 




会社の業務が復活したのは、1週間たったぐらいだと思います。

 

その間も現場作業の依頼がきましたが、大きな余震も続いていて高所作業がある仕事なので危険なことと、放射能の影響を考え、会社の業務はしない方針だと伝えました。

 

お客様には言いませんでしたが、従業員は家族のもとにいたい筈だと思いました。

 



仲間の会社では、元受業者から「福島に行ってくれ」と依頼があり、断ると「行かないと今後一切仕事を出さない」と脅されたそうです。

 

福島原発での作業ではありませんが、確実に高線量の被曝をするとわかる場所です。

 

その人は「僕には女房子供を面倒みる義務がある」とキッパリ断り、会社をたたみ、沖縄に移住していきました。

 


他にも色々なエピソードはありましたが、このくらいにしておきます。

 



その後、会社ではボランティアで、市内の放射線濃度を計測し、ネットで公表していました。

 

「放射能から子供を守る会」などの方たちとも知り合い、情報交換をしました。

 

電力業界の腐敗が明らかになり、僕は怒っていました。

 

ツイッターやフェイスブックなどでも、その「怒り」を発信し続けていました。

 

もちろん経営が傾いた会社の為にも全力を尽くしていましたが、倒産させてしまいました。

 



それと同時に、こころの勉強もしていました。

 

震災で人と人との絆を実感できるエピソードも沢山目にしました。

 

震災で多くの人が亡くなり、死というものが現実味を帯びて自分に突きつけられます。

 

多くの人の尊い命が理不尽に奪われた自然災害の傷跡を目の当たりにしました。

 

海外メディアの津波被害の写真の中に、赤ちゃんの手が瓦礫の中から見えている写真がありました。

 

人生最大の喜びをもたらしてくれる自分の息子が、もしあの場所にいたらと思うと、家族を亡くした人や、亡くなった人の想いが浮かび、いたたまれなくなり、涙が止まりませんでした。

 




のちに僕は妻に言いました。

「赤ちゃんを守ってくれてありがとう」

「ん? なんのこと?」

 

妻は自分の身を呈して、赤ちゃんに覆いかぶさっていた事を覚えていませんでした。

 

母親としての本能で咄嗟にとった行動だったようです。

 

妻の母としての尊厳に対する偉大さを感じ、感動したことを覚えています。

 

被災された方の中にも、同じように守られたいのちがあるのだと思います。

 




僕の使命は、社会に怒りを発信することではなく、愛を訴えることなんだと思います。

 

震災が教えてくれたことの偉大さは計り知れません。


自分が何故会社を倒産させてしまったのかも、今ではわかります。

 

日本の歴史の中では、幾度も自然災害を繰り返しています。

 

その度に尊い命が理不尽に奪われ、諸行無常を実感してきたのだと思います。

 



そして師匠に教えて戴いた、小林秀雄の言葉を思い出します。


「現代人には、無常ということがわかっていない。常なるものを見失ったからである」

 

震災が教えてくれた「絆」や「情緒」「尊厳」のなかに常なるものがあるのでしょう。

 

 



残された僕たちの使命は、常なるものを取り戻すこと。


それを多くの人に伝えることで、より良き社会ができて行くのでしょう。


僕も後世に恥じない人生を送ろうと、新たに決意させて頂きます。




2017/3/12 更新 夫のブログより転載



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